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55回部落問題研究者全国集 概要報告
2017年10月28日・29 於:同志社女子大学今出川キャンパス

※なお、報告と討議内容の詳細は紀要『部落問題研究』225号に掲載されます。


 
全体集会    松井 活(部落問題研究所文芸研究会)

分科会 T  歴史 T 海原 亮(住友史料館主席研究員)

分科会 U  歴史 U  杉谷 直哉(篠山市教育委員会)

分科会 V  現状分析・理論  河野健男(同志社女子大学)

分科会 W  教育  石田 暁(部落問題研究所)

分科会X  思想・文化  小原 亨(部落問題研究所文芸研究会)

特設分科会  人権と部落問題を語る会  尾川 昌法(部落問題研究所)

全体集会
    松井 活(部落問題研究所文芸研究会)

 全体会では、「日本社会の民主的発展と部落問題研究―成果と方法の継承・発展をめざして―」をテーマに、猪飼隆明(大阪大学名誉教授)「近代日本の社会問題の歴史研究―部落問題、ハンセン病問題」と石倉康次(立命館大学特任教授)「社会調査から見た部落問題の解決過程」の2報告と、質疑応答・討論を行った(司会は広川禎秀・奥山峰夫)。
 猪飼氏は報告で、ハンセン病差別が部落差別とは異なり封建身分に由来するものではないと指摘した上で、推計される患者数との比較や、内務省衛生局長の言葉などから、1907年「癩(らい)予防ニ関スル件」に始まる浮浪癩「取締」は、近代以後固有に生じ、患者全体のうち少割合でしかなかった浮浪癩(患者のほとんどは共同体に家族とともにあって生産的労働を営んでおり浮浪してはいない)に対する「拠るべなき浮浪・徘徊する患者の救済・救護を目的」とした、その意味で社会福祉の性格を持つものであると指摘。したがって、同法がハンセン病患者を「癩菌」を撒き散らす元凶、あるいは文明国の恥辱と捉えて「隔離」して「取り締まる」治安立法だとする通説的理解は誤りであると強調した。
 さらに、熊本本妙寺集落や、第五区公設療養所内の患者自治会の形成過程などを見ると、患者の多数が自発的入所者で、所内外の往来や交通も事実上自由だったために生じた患者間の経済格差解消を目的に、患者は自治を通じて仕事に活発に取り組んでいたところ、自治能力が発展し本来療養所が行うべき行政取締まで任されたために、国立療養所への移管に伴い、患者自治はいわば自滅したと述べた。患者自治を可能にした内外の自由交流と大正デモクラシーの思想的影響、また患者は所外にも多数いたことを考え併せると、患者を「隔離された気の毒な集団」という「マス」でなく、様々な個性と可能性を持つ「個」の集合体として見る必要があると強調した。
 石倉報告は、戦後高度経済成長期前、高度経済成長期、同和対策事業実施後の3つの時期区分ごとに、@同和地区と周辺地域との間での各種格差の解消、A部落差別観念・意識の社会的通用性、B部落の社会生活や文化における歴史的後進性の克服、C通婚や祭礼参加などにおける社会的障壁の除去・融合の実現という4つの指標から、第1期は和歌山県全域や埼玉県の都市近郊農村の、第2期は第1期から継続する京都市竹田深草地区の、第3期は1994年の広島県豊栄町(農村部)と2000年の大阪府大都市部、2000年代後半の大阪府の、各社会調査を分析比較し、また歴史的後進性に関する調査データは少ないため、1959年京都市立皆山中学卒業生調査と1994年の豊栄町調査との比較を行い、部落問題の解決過程がどの指標においても大きく進んだことは明らかであり、豊栄町のような農村部で戦前から住民自身の一貫した取組みで講中統合が図られた経験は特筆すべきだと指摘した。
 その上で、婚姻関係に焦点を当てた斎藤直子氏の最近の研究を検討し、結婚にあたり同和地区出身を相手に告知したか否かに拘らず「差別」体験がないとの回答が6〜8割を示すことを無視して、部落に対する固定的イメージから部落内外を区分する思考の下に、「部落差別解消推進法」に繋がる心理主義的な部落問題の把握を行うものであり、部落問題の歴史的社会的属性に即した、人々の営為による具体的解決過程を見ない議論であると批判した。
 質疑応答では、猪飼報告について、戦前の自治会活動の発展が自滅を招来したという評価の適否、戦後熊本の自治会活動の発展との関係をどう考えるかとの質問(松岡氏)に対し、戦前の自治会は患者への行政機能まで果たしたがゆえに、自ら自治会ではなくなったとして国立移管に時期を合せて消滅し(自治は所外の本妙寺集落における病院設立などの動きに吸収されたが、それも抑圧された)、それを戦後の恵楓園自治会が厳しく総括したことが、後の発展に繋がっている、ただその後新憲法下での新らい予防法制定などを考えると、そこには未解明の部分が多いと回答があった。また、本妙寺周辺のハンセン病者の姿に接した人間でも、ハンナ・リデルと光田健輔の対応の違いは無視できないという応答があった。 また、明治期のハンセン病法制を「社会福祉」というのは、治安立法「だけでなく」社会福祉の側面もあるという理解なのか、共同体崩壊による浮浪癩出現に対する上からの社会政策的側面というべきなのではないかとの質問(梅本氏)に対しては、1907年法の立案者・窪田静太郎の言葉から、主たる側面は「拠るべない者の救済」だと言える、社会政策の性格はあるだろうが、患者らの生活や療養所外の社会との関わりを見るときには社会福祉的視点が必要であり、そうして初めて「個」という集まりが視野に入ってくると回答があった。
 石倉報告については、豊栄町の同和「地区」の存在の仕方について応答があった。また歴史的後進性は、その前提たる常雇労働者の変化などから社会的交流を見ていく必要はないのか、斎藤直子がいう「被差別体験」で、結婚に「反対された」ことがなぜ「差別」なのかという批判が必要ではないかとの質問(梅田氏)に対しては、皆山中学校の調査が歴史的後進性の前提条件を示している、斎藤自身はここで引用した統計を示さずに被差別体験を論じており、その点から批判すべきであるとの回答があった。さらに、皆山中学校の統計が歴史的後進性を示すという評価自体「後進性」の意味が曖昧で、同族意識で固まって言葉も違うことを「後進性」と呼んでよいか疑問である、という指摘(梅本氏)があった。
 全体討論では、石倉氏から猪飼氏に、1907年の救済法から1931年の隔離収容法への変化にどのような時代的特徴があるのか、戦後の1953年法以後も隔離が続いてきたことは戦後日本社会のどういう問題を示しているかとの問いがあり、立法意図はともあれ、1931年法の時代でも自発的入所患者が多数に及ぶ点を見ても、戦後の1953年新法とは質が異なる、高松差別裁判事件(1933年)との関連は不明だが、戦後社会の問題としては、プロミンが効果を発揮していても隔離が継続された背景には、光田の責任だけでなく優生思想克服の努力がなかったこと、新憲法制定も内発的運動の成果という実感を伴って実現しなかったことがある、と回答された。
 これに関連して広川氏から、猪飼氏の近著が一般化を避けているように見える背景に、歴史の全体像を単純化して見ることへの批判があり、猪飼氏も九州療養所の分析から言えることを提起しているのだから、これを参照しつつ他の療養所について同様のことが言えるか、その解明のために今後どうするか、また新憲法についての指摘も、多様なレベルで憲法の担い手を考えうるから、その探究もこれからの課題であるとの指摘があった。
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分科会 T 歴史 T 

   海原 亮(住友史料館主席研究員)

 歴史T分科会は「近世巨大都市と身分的周縁」をテーマに、杉森哲也「近世京都・妙法院領の新地開発とその地域構造」・吉元加奈美「近世大坂における堀江新地の社会構造分析」の2つの報告があった。
 いずれも江戸時代の巨大都市を素材とした精緻な実証研究の成果で、絵図や史料・表をふんだんに用い、聞き応えある内容だった。
 いうまでもなく「身分的周縁」の方法論は、1990年代以降の近世史研究を主導し、個別事例の分析も相当に進んできている。両報告は、既存の研究蓄積を丁寧に踏まえつつ、これまで看過されがちな論点をすくいあげ、周縁社会の構造解明に注力しており、きわめて重要な試みと評価できる。あいにく当日は台風の接近によりやや寂しい参加状況ではあったが、報告のみならずフロアを交えた質疑は幸いにもかなり充実したものとなった。
杉森報告は、京都の都市空間が拡大する過程について、とりわけ鴨川右岸地域の整備、えた村の移転と開発の様相を絡めて、詳しく検討したものである。報告のなかで、鴨川(河原)の景観が現在と大きく異なることに留意すべき、とのコメントがあった。鴨川治水の変遷に関しては建築史分野による成果に加え、近年になって災害史研究の視角からあらたな研究もみられるが、寛文新堤以降の状況、とりわけ本報告が期した都市開発の側面は、未だ実証研究が不十分である。『妙法院日次記』に加え、関連する史料の発掘が強く望まれるところだろう。
 討論では、六条村の史料「諸式留帳」の解釈について、七条新地の開発に絡めた妙法院側の意図などを問う意見が出た。「皮張場」「皮漬洗場所」などと記された河川利用の実態、新地開発前の状況をどのようにとらえるべきか、解釈はたいへん難しい。河原という空間の性格、その権利関係については、なお精査を要する論点といえる。また、七条新地における遊女商売の動向に関し、史料として示された上月家文書に即した議論がフロアとのあいだで活発に交わされた。
報告者も指摘したように、これら新地開発者の性格規定、あるいは実態解明も今後の課題である。従前、著名な開発主体の解明に注力されてきた向きもあるが、一方でそこがどのように利用されたか、たとえば茶屋の実態や舟運関係の従事者、史料中「其日過候者」と呼ばれたような零細な労働者の存在に留意すべきだと主張された点は、まったく首肯し得るところだろう。
吉元報告は、氏が進めている遊郭・遊所研究の前提として、大坂堀江新地の社会構造分析を期した意欲的な内容となった。具体的に素材を御池通五丁目に据え、水帳の分析から家屋敷所持の動向を精緻に追い、きわめて長い期間にわたる分析を達成した。
開発当初は不在地主が大半で、家屋敷経営それ自体を目的とする所持、資本投下先としての性格が強い。だが、19世紀以降は屋敷が分割される例、借家人のなかから家屋敷を買得し家持になる者がみられた。この点について討論では、他の商家、また京都の場合と比べても独特なものではなかったか、という意見が出た。しかし、やはりこれは堀江新地の特質として積極的に解釈すべき点かと思われるし、困難だろうが、他町の具体的な史料をもっとみることが出来れば、より正確な評価を為し得よう。
また、報告の後半では家質の広範な展開とそれへの町の関与について事例が数多く提示された。そもそも家屋敷の「質取主」とはどのような存在か、というごく単純な疑問もなかなかうまく説明がつかないものである。借家人レベルの者が家質という手段を使って家屋敷を買得する、経営規模の小さな者も資金を確保することが出来る、そのような史料上にみえる実態は、どれもきわめて興味深い。
 思うに、レジュメで述べられた「元銀はそのまま、一定の間隔で『仕替』…家屋敷を差入れたまま、利銀だけを返済」するといったありようは、疑いなく近世社会における貸借関係のごくありふれた形態なのである。
つまり経済史の研究蓄積が解明してきた、商業資本を主体とした金融システム、その制度的な理解を超越し、貸借にかかる一般的な通念をうかがうために、本報告で詳述された家質の様相に注目することが大きな意味をもつ、そのような印象を抱いた。
 もっともこの種の感想は、おそらく報告者の意図するところではなかろう。御池通五丁目の事例が特殊かどうか、という点はさしおいても、借家人層レベルの経済観念にまでアプローチし得る(かもしれない)、本報告のような綿密な史料読解を通じて、「身分的周縁」論の魅力、醍醐味をあらためて感じることができた。
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分科会 U 歴史 U 
 
   杉谷 直哉(篠山市教育委員会)

 歴史U分科会は「近現代の日本における東北の歴史的位置」をテーマに、竹永三男氏と河西英通氏が報告した。
 竹永氏は「地方長官会議・東北振興調査会と東北六県」と題して報告した。竹永氏は自身が長年研究テーマとしてきた地方長官会議の場面で、「東北六県」というまとまりが他地域とは異なって存在していたことを指摘した。
 内閣総理大臣が地方長官会議の際の訓示の中で、東北地方の振興策について言及した他、東北六県の知事の側から総力戦体制の完成には東北地方の振興が必要であるという「広義国防」の論理によって、東北振興を訴える動きがあったという。竹永氏は東北六県の知事の間には連携して東北の救済・振興を訴える動きがあり、こうした動きは他県の地域には見られないとした。続いて昭和天皇が下問の中で東北地方に言及していたことも指摘した。
 次に竹永氏は、内閣東北局について説明した。1935年に設置された東北局は「実行機関」ではなく「総合事務連絡」が目的であったとした。そして、東北局に寄せられた陳情の論理は、東北地域が他地域と比較して「天恵」が少なく、災害も多いことを指摘して、東北地方も北海道や朝鮮、台湾、樺太といった特別法によって優遇されている地域と同等に優遇されるべきというものであった。こうした陳情活動は戦時下の1942年まで続いたという。
 次に竹永氏は、「東北庁」設置要求を取り上げ、内閣東北局と連動した現地指導機関としての東北庁の設置によって、東北振興を充実化させる動きがあったことを指摘した。
 「東北庁」の設置要求について竹永氏は東北選出議員の中に先の東北局の場面で述べたように、東北は特別な政策的配慮が必要な地域であるとする論理があり、それが「東北庁」設置要求に繋がったとした。「東北特異」論というべき論理の帰結こそ「東北六県」による「東北庁」設置要求であったとし、このような動きは戦時体制下で消滅したとしつつも、戦時行政の中で地方総監会議の設置や地方行政事務局の設置などを通して、「東北六県」のまとまりが上から構築されていったことを最後に述べた。
 河西氏は「東北史から全体史へ―地域の歴史、序列の歴史、差別の歴史」と題して東北がどのように論じられ、どのような歴史的位置を占めてきたのかについて報告した。河西氏は「東北史は否定的従属的存在なのか」と問題提起し、東北史を論じる視点を述べた。
 まず河西氏は、東北がいかにして後進になったのかという視点に基づく「格差」の問題と、中央と地方の関係だけではない、国家における「頂点」と「末端」としての「序列」の問題を論じた。河西氏は小松裕氏の問いかけを踏まえて、3・11を通して中央のエネルギー政策の犠牲となってきたことを挙げ、序列の構造が「再発見された」と指摘した。
 次に、東北が戦時と戦後を通じて「収奪」論ともいうべき東北を積極的に「資源」の収奪の場として活用すべきとの言説が存在したことを述べた。
 一方で、東北を植民地としてとらえるかどうかについては、論者によって見解が分かれていると述べた。そして、総力戦体制が進むと東北からは、「帝国主義の先駆者として」率先して戦争協力を訴える論が展開されていたことを指摘した。また東北との関連として、アイヌの問題への言及もなされた。
 最後に原発問題について言及し、なおも東北をエネルギーの供給源として扱おうとする中央の論理に対し、「連鎖する差別」から「連鎖する共存」への転換を求めた。
 個別討論ではいくつかの事実確認がなされた。竹永氏の報告には地方長官会議の際に昭和天皇に東北料理が振る舞われた件について、誰が発案者なのか、他の地域にそういった事例はないのかという質問があった。
 これに対し竹永氏は、誰の発案かは特定できないが、昭和天皇が東北地方に対して強い関心を抱いていたのは事実であり、昭和天皇自身の発案である可能性は十分にあると述べ、他の地域の事例は確認できなかったとした。
 河西氏の報告に対しては、3・11後も続く東北に犠牲を強いる構造に対して、新自由主義だけでとらえられるのかという質問があり、河西氏は新自由主義という文脈だけでなく、東北差別の文脈の中で生じた出来事として3・11をとらえる必要があるとした。そして、3・11を「トラブル」程度としてしか認識していない中央官僚の姿勢を問題視した。
 全体討論では、東北という地域概念をどうとらえるかについて議論が進んだ。竹永氏は東北の中での地域間格差、具体的には仙台の一極集中を指摘した。これに対しフロアからは、仙台への一極集中は戦後のことであり、戦前は山形の方が発展していたとの意見があった。
 この他にもフロアからは、東北間でも地域のアイデンティティの差異性を指摘する意見があった。河西氏はこれに対して、コンプレックスとしての東北という側面がある一方で、モチベーションとしての東北という側面があったことを指摘した。
 また、そうした東北の差異性を踏まえつつも、なぜ東北という一体性が生れたのかという問いに対して、竹永氏と河西氏とフロアでは、差異性↓一体性↓差異性という連続した意識があることと、その意識の背景には内部格差を踏まえつつも東北という一体性の「フリ」をして、東北の不平等性に取り組もうとする姿勢があることが共有された。
 最後にフロアからは、アトム化する社会現象の中で東北をどう理解したらいいか、という提起もなされた。
 紙幅の都合と筆者の能力不足により、全ての討論内容を取り上げることは出来なかったが、報告者の充実した報告内容と、フロアからの質問を整理した司会者の手腕によって、本部会では全体を通して非常に闊達な議論が展開された。  

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分科会 V 現状分析・理論
  
     河野健男(同志社女子大学)

 午前に朴仁淑(立命館大学)「戦後韓国における高齢者の貧困と対策」、午後に荻原園子(龍谷大学大学院)「生江孝之と部落問題」、奥山峰夫(部落問題研究所)「結婚差別をめぐる議論を考える」の報告を受け、部落問題・人権問題をめぐる諸論点を議論した。
朴報告では、韓国全体の相対的貧困率(2014年14・4%)に対して、高齢者のそれが48.8%と高いのは、@低水準の老後所得保障、A家族扶養機能の衰退、B高齢期に入る以前の就労と居住の不安定性に起因すると述べた。 とりわけ、75歳以上の高齢者世代にこの傾向は顕著であり、彼らは植民地期、朝鮮戦争、1960年代後半以降の産業化時期を低学歴および不安定就労で生き抜いてきたので、老後生活への準備どころか、日々の生計の目処が立たないまま高齢期に入ってきたのである。
 韓国の高齢者の来歴を跡づけてみると、植民地期の土地調査事業によって、土地所有権や耕作権の文書記録のない土地は日帝に帰属されたため、小作農の7割以上が春先に食料が底をつく「春窮」であり、生活困難と不就学は現高齢者世代の安定的就労機会の獲得を狭めた。
 解放後の南北分断による混乱は、零細農の増大の他、海外同胞の帰還や越南民増大もあって、「板子村」すなわちバラックが密集している不良住宅地域を作り出した。
 その後の産業化期では、低穀物価格政策による離農促進と都市賃金労働者化によって都市部人口の急増(1985年に65・37%)がもたらされたが、高い経済成長の反面、「飢餓的低賃金」と劣悪な労働環境は放置されたままであった。
 軍事政権下では都市開発が進んだが、都心の「板子村」の郊外部(廣州大団地)移転政策も、その実、インフラ整備を欠いた移転であったため、かえって移住者の不満増大や首都圏の住宅(賃貸)価格高騰を招き、労働関係法の改悪や「維新憲法(1972年)」による労働者抑圧が横行し、その後今日まで続く非正規労働者の増大(2013年で32・6%)と低い社会保険加入率(2014年で正規労働者82・0%・非正規労働者43・8%)を生んでいる。
 経済成長の恩恵を享受する機会の乏しかった現在の高齢者世代の特徴を、報告者が2012年に行った調査から紹介すると、@結婚した者のうち30%以上が40歳以前に死別・離婚歴をもっている、A未就学(非識字)26・0%と低学歴が多いこと、B86・9%が地方出身者であり、建設、工場、食堂、行商など不安定職業を経験した者が多いこと、C子どもがいる者は79・6%だが「一人暮らし」は71・8%であり、同居子には障害者や貧困による未婚子が多い、D低位な社会政策のもとで「敬老食堂」を利用するなど貧困者が多いなどであった。
 荻原報告は、生江孝之(1867〜1957年)の神戸での部落保育活動に焦点をあてて、社会事業における「社会福祉」視点の成立を跡づけようとした。 アメリカ・ヨーロッパへの外遊(1901〜1904年)を通じて、生江は貧困児童保護問題やソーシャルワークの隆盛を知り、これがその後の社会事業家としての歩みにつながった。
 杉之原寿一によれば、神戸市宇治野川地区の部落改善事業は、1911年あたりから「清風会」による風俗矯正、環境衛生改善、就学奨励、トラホーム治療などに取り組んだ。また、日露戦争出征軍人遺族のための神戸市婦人奉公会による保育所運営に生江は深く関わっていった。当時の「大阪朝日新聞」には、宇治野保育所で行っている子どもへの備え付け衣服の着用、手洗い励行、郵便貯金奨励などが紹介されていた。
 報告者の力点は、日露戦争期の神戸における保育所の運営は、融和運動として位置づけられる性格のものではなく、慈善事業を克服した社会連帯やソーシャルワークに基づく社会事業への発展を目指したものであったというところにありそうだ。この点は、1912年以降の細民部落改善協議会における生江の発言にあるような、保育による母親の就労自立支援の意義の強調、職業と呼べるような労賃獲得機会のないことが貧困の原因である、といった発言に覗えるところである。
 奥山報告は、結婚差別の事案を聞いたことがあるなどの調査結果を根拠にして、部落差別としての結婚差別は未だ根絶されてはいないという一部の論説に対して、それが結婚差別と言いうるのは、当事者間に婚姻の合意があるにもかかわらず、部落を理由に婚姻が不成立に追い込まれたり、婚姻が成立した後にもこうした圧力が加えられることで離婚に至る、などの具体的な障碍が発生した場合であると述べた。諸困難を排して婚姻が成立したり、婚姻が持続しているのであれば、それを結婚差別と言うのはふさわしくない、という主張である。
 結婚差別の解消は、戦前の水平社運動においても「部落差別撤廃」における重要な課題であった。1931年の第10回大会では、「特殊部落民の地位」として「結婚上の差別」が起きやすく、「一般民と恋愛関係によって夫婦約束成立したる時、いろいろと家庭的悲劇が惹起され」「その睦まじい仲を引裂かれ」たり、婚姻が「成立すれば家より勘当せられて絶対に行き来を断ち切られること」として、その撤廃を求めていた。
 戦前における結婚差別の事例には、「控訴人が旧穢多の家に生まれたるものと知悉せしならば…結婚せざるべかりしものと推定すべく」として婚姻取り消し請求を認めた事案(広島控訴院1902年)、部落出身であることを秘匿して結婚したのは結婚誘拐に相当するとした高松差別裁判事件(1933年)などがあり、その背景には戦前における「普通民との婚姻3・5%」(内務省社会局調査1922年)という実態があった。
 戦後においては、無罪判決を勝ちとった福山結婚差別事件(1960年)や妻を自殺に追いやった夫への慰謝料請求事件で勝訴した南沢恵美子事件(1965年)などがあったが、その後の部落内外の通婚率の上昇によって、この種の差別は急速に解消に向かってきたところである。
 全体討論では、朴報告に関わって、植民地期の統治政策は、当初義務教育制度が貫徹していなかったこともあって不就学や中途退学の増大を生んだし、労働者は夜学にも行けない状態であったという補足説明があった。荻原報告に関わっては、部落教化政策の側面が強い融和事業に対して、社会福祉の視点からの社会事業を提唱実践した生江の功績をさらに鋭くすべきであるという積極的提言がフロアーからあった。奥山報告に関わっては、差別解消法に簡単に賛成する世論動向があるのは事実であり、これと如何に取り組むかが重要であるという意見があった。
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分科会 W 教育
  
     石田 暁(部落問題研究所)

  教育分科会は、「道徳の特別教科化と道徳教育」をテーマに開催された。
 2018年度から小学校で、2019年度から中学校で、特別の教科「道徳」の授業がはじまる。教科書の批判的検討、教材・授業方法・評価などの実践的検討が求められる。
 報告者とテーマは、平井美津子(子どもと教科書大阪ネット21)「教育勅語と道徳教育」、倉本頼一(立命館大学非常勤講師)「道徳の特別教科化と道徳教育教科書」である。
 1.報告
 平井さんは、道徳をめぐる中学校の状況について、道徳の授業参観や研修が多いこと、文科省の副読本『私たちの道徳』で授業を行っていること、多忙な中で若い先生が指導書に頼って指導していることなどを報告。
 また、教材の指導項目には「法や規則を守る」「集団や社会の一員としての自覚」とあり、文科省がいう「心を育てる教育」としての「道徳」には違和感があると指摘した。授業では、意見や考え方を生徒に返して議論をさせたいこと、生徒が授業で書く感想と成績の関係に敏感になっていることも報告した。
 また、沖縄での皇民化教育(「御真影」奉護の悲劇)を例に挙げ、「教育勅語」は「君主である天皇に常に国民は奉仕しなさい」と説いたもので、戦後は、日本国憲法・教育基本法の理念に照らして国会で排除・失効を宣言・決議され、否定されたものである。「教育勅語」とは何かを生徒に伝えることが大切であるとした。
 「道徳の教科化」により、子どもは授業で習った徳目を実践しているかどうかを点検・評価されないか、「あいさつ」の強制など子どもを形でしばることにならないかなど問題点をあげた。「友情」「家族」などのテーマを教材として扱う場合も、現代の家族をめぐる問題や実際に友人間で起こっている問題を取り上げて指導すべきだとした。
 倉本さんは、道徳教育研究指定校の発表会で「無言清掃」「かぼちゃのつる」の授業など、子どもの発達に矛盾する取り組みや非科学的な内容が指導されていると報告。
 「道徳の教科化」の新たな問題として、教科としての「道徳内容」は科学的根拠がないこと、文科省が一方的に定めた「目標」「徳目」(22項目)に支配されていること、検定教科書の使用の強制や子どもへの「評価」がされることなどあげた。
 また、検定済み『道徳教科書』分析(6学年8社の教科書)をパネル掲示して報告。「徳目」「心がけ・責任」の押しつけ、「伝統・文化」で愛国心・武士道・日の丸・皇室を強調、「価値・徳目の押しつけ」につながる「指導ノート」と「まとめの課題・設問」の危険性などを指摘した。
 また、「世界人権宣言から学ぼう」など優れた内容で教材として生かせるものもあるとし、子どもの発達段階、科学的な検証、憲法理念など「道徳教科書分析の視点」を示した。
 教材の実践化への6つの提案として、原作「文学作品」や実生活の綴り方の教材化、学級集団づくりとの結合などをあげた。さらに、教材を3つのグループ(優れた教材/指導項目・内容が不十分な教材/指導項目・内容が憲法理念に反するもの)に分類してそれぞれに対応した実践計画をつくることを提案した。
 授業化の基本的課題として、徳目を押し付けないこと、全てを1時間で終わらせようとしないこと、自分の学級に起こっていることの教材化(自由作文、日記指導)などをあげた。
 2.討議
 ○「道徳の教科化」には矛盾があるが、「考える道徳」「議論する道徳」の側面をいかに使うかが大切。道徳教育には普遍性があり、「国を愛する心」「文化・伝統」の中にはいいものも悪いものもある。
 ○国がすすめる道徳をやれば、むしろ「いじめ」が増えるのではないか。自分の考え方・価値観、その人なりの考えや解釈でやっていくのが基本ではないか。教科化には賛成しないが、「徳育」を積極的に位置づける取り組みが必要。子どもの意見表明権、平和・人権・民主主義や世界的な課題・価値を道徳教育の内容に。
 ○生活綴方や文学教育が重要である。慰安婦問題など国際社会で日本人がどうとらえられているかを知ることや市民性・国際性を身につけることが必要である。
 ○教科書・教材については、1つの教材、1時間で「価値」を教えるという組み立て自体がおかしい。子どもが「なぜ」「どうなっているのか」と思うような教材が大切。生徒の批判的認識を育てることが大切。「いい教材・悪い教材」を整理する必要がある。教員が遅くまで勤務している状況では、「考える道徳」など検討できない。
 ○人権教育が徳目化していく傾向にある。人権教育には社会科学の認識が必要。市民的道徳は集団の中で育成されるので、自主的な活動の構築が大切である。「道徳の教科化」を利用し、「徳目」に陥らない社会科学にもとづく人権教育を再構築したい。また、生徒も教職員もものが言いやすい環境が必要。今までの道徳の取り組みを集約して、実践交流していく必要がある。
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分科会 X 思想・文化
  
     小原 亨(部落問題研究所文芸研究会)

   2017年は「解決過程の中で作品を読み解く」をテーマに、現代的問題となっている作家とその作品、そして明治時代の外国人作家とその作品、この2つを題材とする報告があった。
 現代的問題は「上原善広の『路地』の迷路」と題した秦重雄氏の報告。作家・中上健次が用いた一般語「路地」、それを「部落」へと意味上の言い換えをし、その定着化を図る上原氏の企みを諸作品に沿って解説した。それは、『日本の路地を旅する』から始まり、『路地の教室』・「路地と宿命」(『中上健次集五』月報)・『路地 被差別部落をめぐる文学』へと続いてきた。
 そして2017年6月、自己の父親を主人公にした「自伝的ノンフィクション(上原)」たる『路地の子』を刊行。今では「『路地』とは被差別部落のことである」と公言して憚(はばか)らない。しかし氏自身も「(中上の)小説の中で、この言葉が被差別部落や同和地区を指していると説明されたことは一度もない」と認めているのだ。にもかかわらず、理屈抜きの不合理性をむき出しにして、路地=部落を定着させようとする。そんな上原氏の、「限りなく神話的な抽象世界(上原)」の中で言語を弄(もてあそ)ぶ数々の営為から、部落問題解決に逆らう問題性を明らかにしていった。
 ノンフィクションの手法では、当日参加していた角岡伸彦氏の『ピストルと荊冠』を紹介・比較して、『路地の子』の客観化の甘さと自己合理化を指摘。結局は自分に向けての「私小説」であると言う。屠殺場の描写では、本橋成一氏の写真集『屠場』や鎌田慧氏の解説文、纐纈(はなぶさ)あや氏の映画『ある精肉店のはなし』などと比較して、その空疎性と部落を典型化する逆行性を告発。さらに、実在した和島為太郎氏とは正反対の共産党のボス的存在を描く手法と、また実際の4期16年にわたる松原市の民主市政には全く触れない観点など、『路地の子』が潜み持つ恣意的攻撃性も明らかにした。そして、溝口敦氏の『食肉の帝王』とも対比し、『路地の子』が俗情と結託した男社会の王の物語に過ぎないことを指摘。しかし、本作が大手出版社・新潮社から発行され、その販売戦略から部落問題への誤った認識をまき散らしていることは大きく糾弾しなければならない。
 次に明治の外国人「ラフカディオ・ハーンの作品に見る部落問題」と題して、成澤榮壽氏が「島根通信」を中心に報告した。ハーンが松江滞在中に、日本の生活と見聞を記した『知られざる日本の面影』の位置づけをした後、所収の「島根通信」から「俗謡三つ」と題された小文を紹介。ハーンが松江郊外に赴き、「山の者」と呼ばれた被差別状況下の階層者たちが演じる「大黒舞」を見聞した記録である。それを原文と訳文の資料を付けて「鋭く、しかしあたたかく、日本民族の伝承や詩歌・民謡を丹念に採集し…綿密な分析を加えて作品化した」意義を示した。 ハーンほど日本を理解し、欧米人に日本を理解させようと努力した人物はいないとよく言われ、柳宗悦などに与えた影響も大きかったと言及。ハーンの「島根通信」は、部落改善運動への社会的関心が高まった時宜にかなったもので、彼がいかに社会的動静に対して正しい把握をしていたかも併せて述べていく。
 ハーンがこの記録を残すにあたっては、友人・西田千太郎の協力がなくてはならなかったことにも触れた。その上で、「山の者」たちへ注いだハーンの視線、特に女性たちをあたたかく見つめたヒューマニズムの心情を指摘し、「俗謡三つ」もヒューマニズムのあふれた作品だと言う。それは、西田の「新士族」としての被差別体験に基づく真の眼差しが大きく影響していたことを明らかにしていく。ところが西田没後は、その視点は妻の小泉セツに負うところが多くなる。そのためヒューマンな側面が後退していったことも報告に加えた。こうしてハーンの人間性に基づく見聞記「俗謡三つ」の報告をしたのだが、最後に「俗謡三つ」を含む書籍が、島根県立図書館では閲覧禁止になったことも述べて、誤った部落問題への対応にも警告を発して報告を終わった。
 討論では、上原の作品の未熟さとその手法の卑劣さに批判が集中。彼をノンフィクション作家とは認めないという発言さえあった。そのやり口は、本人の発言=「差別だけ無くして、路地は残していけば良い」とは裏腹に、新たなメタファーを作ることになってしまい、部落問題解決には全く逆行するものであることが参加者全員の確認となった。同時に、ハーンの姿勢への共感と島根県立図書館への批判が上がったことは言うまでもない。部落問題がほぼ解決されたと言える現在、求められるのは恣意と煽動の文芸ではなく、ハーンのようなヒューマニズムで捉えた文芸である。         
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特設分科会 人権と部落問題を語る会
  
     尾川 昌法(部落問題研究所)

 2016年度に開設されたこの分科会は、自由に部落問題を語る会である。
 今回は奈良から村上誠子さん、山田奉子さんが出席された他、東京、奈良、大阪、広島、京都から参加があり、全員で8人だった。司会は、梅本哲世、竹末勤、尾川昌法の3人が務めた。
 出席者の自己紹介と地域の課題などの紹介からはじまって、全体会で出された結婚差別と歴史的後進性の問題に議論が集中した。
 いくつか印象深い発言を紹介する。
 ○かつて部落で保育所要求者組合を作ったことがあったが、そのハンコを押すのに部落出身者かどうかを解同のいわゆる地区精通者が認定していた。全解連専従であった私は認められなかった。今は、約600人の「高齢者の会」をつくり10年になる。
 ○部落問題解決過程の研究から学びたいのは、地域間格差の解決をどうすすめるかという問題である。山奥の私の集落は小さく、寺と3軒だけなので、ライフライン問題などが行政により後回しにされている。暮らしの格差が開く一方である。『人権と部落問題』誌では、高齢者や地域間格差の問題に役立つ記事を載せてほしい。
 ○広島の大田川の上流の町、カール・ヨネダ(日系移民としてアメリカ共産党に入党、サンフランシスコの日本語紙「労働新聞」主筆、など社会主義運動家)の故郷である町にすんでいる。解同の糾弾行動に抗議して町議補欠選挙に立候補し、当選して以来40年近く町議であった。この頃の若者は、アメリカ人とも、好きだから結婚するというふうに変わってきている。このことを大切にし、伝えたい。
 ○「窓口一本化」に反対し、私たちには権利があるのだ、と運動してきた。近くの部落と共同して住宅を要求、41軒を立てた。部落解放運動は当事者運動として類のない運動であったし、差別を自覚して立ち上がったことが原点であると思う。運動の体験を若い人に引き継いでいきたい。後世への伝え方を考えねばならない。
 ○バス運賃は山間部で高くなっている。ゲートボールも高齢者の誰でもができるわけではない。食べていける年金の要求も強い。高齢者にも格差問題がある。
 ○例えば浄土真宗の寺の部落問題認識は、いまだに運動初期のままである。僧侶も寺院機関誌のままに理解し、地域の人たちもそれを信じている。部落に対する偏見は、地域人権連などのように運動を引き継ぐのでなければ復活するので、日常的な活動が必要である。
 ○日当と金の「アメ」で動員できた時期もあった。今では、同族意識はない。部落アイデンティティは間違っている。同じ住宅に居り、選考採用もバスやゴミ処理の仕事などで、今も尾を引いている問題はあるが、これは同族意識の問題ではない。
 全体会で歴史的後進性は1960年前半頃に大きく後退したように云われたが、国民融合運動の中で、1970年代になってから克服されていったのではないか。
 出席者は、昨年とほぼ同数であり、豊富な活動体験に裏付けられた発言は貴重なものであった。しかし、この分科会に、研究入門的な意義や研究所に対する意見、要望などを期待するならば、若い世代にとっても魅力のある工夫をしなければならないと思う。
         
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